第 55 回目はギリシア神話の御紹介です🍀
【 ギリシア神話物語
トロイアの歌 】🍀
著 者/コリーン・マクロウ氏
( Colleen McCullough )
訳 者/高瀬 素子( たかせ もとこ )氏
語り手 アガメムノン
私たちは陸路を旅して、ペレポネソス半島の西海岸にある小さな村で船に乗り、風の強い海峡を渡ってイタケ島へ向かった。浜に着くと、げんなりしてその島を眺めたーーー狭くて、岩だらけの、役にも立たない不毛の地ーーーこの世でいちばんの知恵者にふさわしい王国とはとてもいえない。車の通れない狭い山道を苦労しながらたどって、ひとつしかない町へ向かいながら、港に適した浜はそこしかないというのに、オデュッセウスが交通の便をはかろうとは考えもしなかったことを呪った。それでも、町に着くと、蚤のたかった汚らしいロバを二、三頭、何とか見つけることができた。この場には、主の大王がロバにまたがる姿を目撃する延臣がひとりもいないことに心底ほっとしながら、宮殿までそのロバに揺られていった。
小さな宮殿ではあったが、いざ目にすると驚いた。外観はみごとなもので、高くそびえ立つ柱に、その申し分のない彩色からして、内部の壮麗さが忍ばれた。彼の妻が嫁いできたときに、持参金として広大な土地に、櫃( ひつ )いっぱいの黄金、王の身の代ほどもある宝石の山をもたされたに決まっているーーーあの花嫁の父イカリオスは、汚い手でも使わなければ、徒競走にも勝てない男のもとへ娘をやることに、どんなに反対したことか!
当然、オデュッセウスは出迎えのために宮殿の正面玄関( ポルチコ )に立っていると思っていた。大王ご一行が町に到着したという噂はとっくに伝わっているはずだった。だが、やれやれと胸をなでおろして、身分卑しき乗りものの背中から下りてみると、宮殿はしんと静まりかえり、人けもなくがらんとしていた。召使いひとり、姿を見せなかった。私は先頭をきって中へ入ったが、怒りというよりはとまどいを覚えた。壁を彩るフレスコ画はまさに壮観というほかはなかったものの、端から端まで見まわしても、宮殿の中にはまったく生気というものがなかったからだ。オデュッセウスがどこへでも連れていく、あのろくでもない猟犬アルゴスでさえ、吠えかかってはこなかった。
驚くほどみごとな青銅の両開きの扉を見れば、玉座の間がどこにあるのかは明らかだった。メネラオスがその扉を押し開けた。私たちは敷居のところにつっ立って、目をみはった。その芸術性の高さも、絶妙な色の取り合わせも、ひと目で見てとれた。それに、玉座が置かれた壇上へ通じる階段のいちばん下の段で、うずくまって泣いている女の姿も。彼女はマントに顔を埋めていたが、頭を上げると、すぐに正体はしれた。左の頬に、深紅の蜘蛛と青い蜘蛛の巣の刺青が入っていたがらだ。機織りの守護神を気どるパラス・アテナに身を捧げた女のしるしだった。ペネロペはくるりと振り向いた。
彼女はさっと立ち上がってから、またひざまずいて、私のキルトの袖にキスした。「 大王さま! おいでになるとは夢にも思っておりませんでした! こんな取り乱した姿でお迎えするなんてーーーああ、大王さま! 」そう言うと、彼女はまたわっと泣き出した。
私は自分でも滑稽だと思ったし、人にもそう思われそうな姿でつっ立っていた。ヒステリックに泣きわめく女が足もとにしがみついていたのでは、権威も何もあったものではない。そこで、パラメデスと目が合って、つい苦笑いした。オデュッセウスの一家を相手にするなら、普通のことを期待してどうする?
パラメデスがペネロペの頭越しに身を乗り出して、私に耳打ちをした。「 王よ、ちょっと探ってみれば、もっとくわしい事情がわかるかと思います。よろしいですか? 」
私はうなずき、ペネロペを立ち上がらせた。「 さあ、いとこよ、気を落ち着けなさい。どうしたのだ? 」
「 大王さま、イタケの王は! 王は気が狂ってしまわれたのです! すっかり狂ってしまいました! 妻の私のことさえ、わからないのです! いまはすぐそこの聖なる果樹園で、わけのわからないたわごとを口走っております! 」
パラメデスはその話が耳に入るぐらいのタイミングで、戻ってきていた。
「 どうしても会わねばならないのだ、ペネロペ 」と、私は言った。
「 わかりました 」と、彼女は言うと、しゃくりあげながら、先に立ってあるきだした。
宮殿の裏口から外に出ると、見渡すかぎり一面に農地が広がっていた。イタケ島の中央部は、周辺部より土地が肥えていた。石段を下りようとしたところで、どこからともなく、赤ん坊を抱いた老婆が現れた。
「 王妃さま、王子さまが泣いていらっしゃいます。お乳の時間を過ぎておりますので 」
ペネロペはすぐに赤ん坊を抱き上げ、腕の中であやした。
「 オデュッセウスの息子か? 」と、私はきいた。
「 はい、テレマコスと申します 」
私はそのぽちゃぽちゃした頬を指で軽くひとなですると、先を急いだ。いまはこの赤ん坊の父親の運命のほうがはるかに重要だったからだ。私たちはオリーヴの林を抜けた。その古木のねじれた幹は牡牛より太かった。やがて、果樹園というよりはただの土しかないといったほうがよさそうな、壁で囲われた一画に出た。そこで、オデュッセウスの姿が目に入った。メネラオスはのどがつまったような声で何かつぶやいたが、私にはぽかんと口を開けることしかできなかった。彼は見たこともないほど珍妙な組み合わせーーー牡牛とラバに鋤( すき )を引かせて、土地を耕していた。二頭はそれぞれ勝手な方向へくびきを押したり引いたりし、鋤は上に飛び上がったり横にそれたりして、畝( うね )はシシュポスの性根のようにねじ曲がっていた。オデュッセウスはその赤毛の頭に農夫が使うようなフェルトの帽子をかぶり、左肩越しに何かをでたらめに放り投げていた。
「 何をしているんだ? 」と、メネラオスがきいた。
「 塩を蒔いているのです 」と、ペネロペが無表情な顔で答えた。
意味もない独りごとをぶつぶつつぶやいては、狂ったように笑いながら、オデュッセウスは土を耕し、塩を蒔いた。私たちの姿は見えたにちがいないのに、その目には相手を認めたしるしはどこにもなかった。それどころか、まぎれもない狂気の光でぎらぎらと輝いていた。私たちがだれよりも必要とする男は、もはや手の届かないところにいた。
私はとても見ていられなかった。「 さあ、彼をそっとしておいてやろう 」
そのころには、鋤はすぐそばまで来ており、二頭の家畜はますます手に負えなくなっていた。すると、何の前ぶれもなく、パラメデスがいきなり飛びだした。メネラオスと私が立ちすくむなか、パラメデスはペネロペの腕から赤ん坊をもぎとり、いまにも牡牛に踏み殺されそうなところに置いた。ペネロペは金切り声をあげて、赤ん坊のもとへ行こうとしたが、パラメデスが引きもどした。とたんに、牡牛もラバも立ち止まった。オデュッセウスが牡牛の前に駆け寄って、息子を抱き上げたからだ。
「 どうゆうことだ? 」と、メネラオスがきいた。「 要するに、彼は正気なのか? 」
「 このうえもなく正気ですよ 」パラメデスはほほえみながら、そう言った。
「 狂気を装っていたわけか? 」と、私はきいた。
「 もちろんですよ、王よ。面目を失わずに自分が立てた誓いを破りたければ、ほかにどんな手があるというのです? 」
「 それにしても、どうしてわかったのだ? 」面食らった様子で、メネラオスが尋ねた。
「 玉座の間を出てすぐに、口の軽い召し使いを見つけたのです。彼の話では、オデュッセウスは昨日、家の守り神から神託を受けたということでした。どうやら、トロイアへ行けば、彼は二十年間イタケを留守中にすることになるようですね 」と、パラメデスは答えた。このささやかな勝利を楽しんでいた。
オデュッセウスは息子をペネロペに渡した。彼女は今度は本気で泣き崩れた。オデュッセウスがたいした役者であるのは周知の事実だが、ペネロペにも芝居はできた。まったく、この二人は似合いの夫婦だ。片方の腕で妻の腰を抱きながら、彼はその灰色の瞳でじっとパラメデスを見すえていた。愉快な目つきではなかった。パラメデスは、一生かかっても、恨みを晴らす好機をしぶとく待てるような男の不興をかっていた。
「 見破られましたね 」オデュッセウスは改悛の情も見せずにそう言った。「 私の力が必要だということですな、王よ? 」
「 そうだ。どうしてそんなに渋るのだ、オデュッセウス? 」
「 トロイアと事をかまえれば、長く血なまぐさい戦争となります。そんなことにはかかわりたくないんですよ 」
またしても、長期戦になると言いはるやつが現れた! だが、城壁がどんなに高かろうと、十万の兵に押し寄せられて、どうしてトロイアがもちこたえられるというのか?
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狂気を装うなんてオデュッセウスだからこそ出来た演技なのでしょうね、びっくりです。オデュッセウスという人物は結構楽しい人なのではと思います。
アガメムノンの友を思う優しさも描かれてますね。
Sakuya ☯️
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著者紹介
コリーン・マクロウ氏
( Colleen McCullough )
作家。
1977年に発表された The Thorn Birds は全世界で翻訳され、三千万部のベストセラーとなった。
著作には “ The Masters of Rome ” シリーズの Caesar 等がある。
訳者紹介
高瀬素子( たかせもとこ )氏
1960年生まれ。東京大学文学部英文科卒業。
おもな翻訳書にラッセル・ウォーレン・ハウ『 マタ・ハリ 』、マーガレット・マロン『 密造人の娘 』『 甘美な毒 』( 以上、早川書房 )、ステファン・レクトシャッフェン『 タイムシフティング 』( NHK 出版 )などがある。
発 行/2000年 4月25日 第1刷
発行所/日本放送出版協会
Japanese Edition Copyright
©️ 2000 Motoko Takase
Printed in Japan