第 53 回目はギリシア神話の御紹介です。
【 ギリシア神話物語
トロイアの歌 】🍀
著 者/コリーン・マクロウ氏
( Colleen McCullough )
訳 者/高瀬 素子氏
語り手 ケイロン
わしが住む洞窟は、人間がこのぺリオン山にやってくるはるか大昔に、神々が岩を彫って造りあげたものだが、その外にわしのとっておきの特等席があった。その椅子は崖っぷちぎりぎりのところに置かれており、ごつごつした石の愛撫が老骨にこたえないように、座部には熊の毛皮を敷いてあった。そこに座って、決してなることはない王のごとく、陸や海を見晴らしてひとときを過ごすことが多かった。
わしはひどく年老いていた。秋ほど老いが身にしむ季節はなく、そのころになると、節々が痛みはじめて、冬の到来を告げた。はたして何歳なのか、だれも覚えていなかったし、とりわけ、本人にはさっぱり思い出せなかった。人間ある歳になると、年齢の実感がなくなるもので、そうなると、どの年もどの季節も、すべて死を待つだけの長い一日にすぎなくなる。
わが一族、ケンタウロスは、記憶にないほど昔からぺリオン山に住んでおり、ギリシアの王族の子弟の教育係をつとめてきた。われらに匹敵する教師はいなかったからだ。ここで “ いなかった ” と過去形で語るのは、わしがケンタウロスの最後の生き残りだからだ。わしが死ねば、一族は滅びる。教育係という仕事がら、男たちの大半は独り身を貫いたし、ほかの部族の女とは夫婦になろうとしなかった。ケンタウロスの女たちはつまらない生活にうんざりするようになり、荷物をまとめて山を降りた。新たに生まれる子どもの数はどんどん少なくなった。ケンタウロスの女たちはトラキアへ行って、ディオニュソス( 1 )の信徒の集団マイナデス( 2 )に加わっていたが、一族の男たちの大半はわざわざそこまで旅をする気にはならなかったからだ。そのうち、ひとつの伝説が生まれた。ケンタウロスは、半人半馬の姿を人前にさらすのをいやがって、身を隠しているのだ、と。そんな生きものが実在したとすればおもしろいが、事実はそうではなかった。ケンタウロスはあくまでも人間の部族だった。
わしの名はギリシアじゅうに知れわたっていた。このケイロンの教えを受けた若者のほとんどは、やがて有名な英雄となったからだ。ほんの数人あげただけでも、ペレウスとテラモンの兄弟に、テュデウス、ヘラクレスに、アトレウスとテュエステスの兄弟と、錚々( そうそう/ 3 )たる顔ぶれだ。だが、それもみなはるか昔の話で、日の出を見守るわしの胸中には、ヘラクレスをはじめとする英雄たちのことなど、浮かんでもいなかった。
町からわしが引きこもる隠居所までは、くねくね曲がる一本の道が走っていたが、一度も使われたためしがなかった。。ところが、その朝はちがった。こちらに近づいてくる車の音が聞こえた。こみ上げてきた怒りのせいで、静かな朝の瞑想は吹き飛んだ。わしは立ち上がると、厚かましい侵入者の前に立ちふさがって、さっさと追い払おうと、足を引きずりながら歩きだした。やってきたのは身分の高そうな男で、そろいのテッサリア( 4 )産の鹿毛( かげ/ 5 )の馬二頭に足の速い狩猟用の車を引かせて、上着には王家の紋章をつけていた。澄んだ目をにこやかにほころばせ、男は若者にしかなしえない優美な身のこなしで車から飛び降りると、こちらに歩いてきた。わしは後ずさりした。近頃では、男の臭いを嗅ぐと胸が悪くなった。
「 陛下からよろしくとのことでございます、候よ 」と、その若者は言った。
「 何の用だ、いったい何の用じゃ? 」詰問したが、癪( しゃく )にさわることに、その声はしゃがれてかすれていた。
「 王のご命令で伝言を届けにまいりました、ケイロン殿。明日、王は弟君ともどもこちらに出向かれ、お二人のご子息をあなたに預けて、成人されるまでの養育をまかせにまいります。このお二方に知るべきことをすべて教えるのが、あなたのお役目となります 」
わしは身をこわばらせた。ペレウス王ももっと分別があってもよさそうなものだ! わしは歳をとりすぎて、腕白坊主の相手をする気にはなれなかったし、たとえアイアコスのごとく並外れて優秀な王子であろうと、もはや教鞭をとるつもりはなかった。「 王には、わしが気分を害したと伝えてもらおう! 陛下の息子であれ、弟君テラモンの息子であれ、教育したいとは思わん。明日この山に登ってきても、時間の無駄になるだけだと伝えてくれ。ケイロンはもう隠居の身なのだとな 」
顔を曇らせて、若者はこちらを見た。「 ケイロン殿、そのような伝言を陛下にお伝えするわけにはまいりません。私は明日の来訪を告げるよう命じられ、それを忠実に果たしただけでございます。返事をもらってくるようにとは指示されておりません 」
狩猟用の車が見えなくなると、わしはいつもの椅子に戻ったが、麗しい眺望( ちょうぼう/ 6 )は深紅のヴェールにすっぽり覆い隠されていた。わしの怒りというヴェールに。テッサリアの大王はいったいどういうつもりなのだ、わしがペレウスの息子を教えるとーーーついでに言えば、テラモンの息子も教えると思うとは? ペレウスこそ、何年もまえにギリシアじゅうの王国へ伝令を飛ばして、ケンタウロス・ケイロンは引退したと触れてまわらせた、当の本人だった。いまになって、自らお触れをほごにするとはどういうことだ。
テラモン、テラモン・・・・・この男は子だくさんだったが、目をかけている息子は二人だけだった。ひとりはトロイアの王女ヘシオネに産ませた脇腹の子で、名前はテウクロス。もうひとりの息子のほうが二歳年下だが、こちらは正妻が産んだあと継ぎで、名前はアイアス。一方、ペレウスにはひとりしか子どもはいなかった。王妃テティスが六人の息子を死産したあとで、奇跡的に無事産み落とした息子、アキレウスだ。アイアスとアキレウスは何歳になるのだろう? まだ幼い少年にはちがいない。小便臭くて、はなを垂らした、やっと人間になったばかりのガキどもだ。いやはや、まったく。
楽しい気分は消え失せ、心の奥で怒りをくすぶらせながら、洞窟に戻った。この仕事を逃れるすべはなかった。ペレウスはテッサリアの大王だった。彼に仕える身であれば、命令に従うほかない。この先何年もつづく教え子との日々にうんざりしながら、大きくて風通しのいい隠居所の中を見まわした。広間の奥のテーブルの上に、竪琴が載っていた。久しく弾いていないせいで、弦は埃まみれだった。しばらくふてくされて、気乗りしない目で見つめてから、ようやくその竪琴を取り上げ、怠慢の証を吹き払った。弦はどれもゆるんでおり、一本ずつ、正しい音が出るまで締めあげる必要があった。そうやって手間ひまかけてはじめて、何とか弾くことができた。
ああ、だが、歌声のほうは! もう二度と帰ってはこない。ポイボス・アポロンが日輪の車を駆って東から西へ向かうあいだに、わしは竪琴を奏でながら歌った。こわばった指先をなだめすかしてもみほぐし、手や手首をうんと伸ばしてしなやかにして、“ ラ、ラ、ラ ” と声を出して音階を上がったり下がったりした。生徒の前で練習するなどもってのほかなので、二人が到着するまえに是が非でも勘をとりもどしておく必要があった。おかげで、やっと演奏をやめたころには、洞窟の中は暗くかげり、もの言わぬ黒い影となった蝙蝠( こうもり )たちが、ひらひらと通り抜けて、どこかもっと山奥にある安息の地へ向かおうとしていた。わしは言葉では言い表せないほど疲れきり、冷えきったからだに空き腹を抱えて、すっかり不機嫌になっていた。
ペレウスとテラモンは真昼にやって来た。王の車に相乗りし、後ろにはまたべつの車とガタゴト走る鈍重な牛車を引きつれて・・・・・
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ケイロンは伝言を聞き、この仕事を受けなければならない、と仕方なく思っていたのですが、その後、テッサリアの大王ペレウスが連れてきた息子のアキレウスを見ると気が変わり、ケイロンの心に一筋の光が差します。ケイロンはアキレウスとアイアスに、竪琴の美しい音色を響かせました。
ケイロンが羽根のように軽いタッチで奏でる、美しい音色に包まれてみたいですね。
アキレウスとアイアスはどちらも優秀なのですが、私もアキレウスの方に惹かれます。彼の魅力は世界中の人間を虜にしてしまいそうです。
Sakuya ☯️
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1.ディオニュソス/ギリシアの豊穣と葡萄酒の神です。別名をバッコスともいいます。
~トロイアの歌より~
2.マイナデス/デュオニュソスを信奉する女性信徒の集団です。歌い躍りながら野山を狂いまわり、ときとして動物や幼児を捕まえて引き裂き、生肉を食らうこともあります。
~トロイアの歌より~
3.錚々( そうそう )/人物が特にすぐれているさま。
4.テッサリア/ギリシャ中部の地域名であり、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリエスのひとつで、テッサリア平原の広がるこの地方は、ギリシャの穀倉地帯です。
~Wikipedia より~
5.鹿毛( かげ )/鹿の毛のように茶褐色の馬の毛色。またその馬。
6.眺望( ちょうぼう )/見晴らし。眺め。
著者紹介
コリーン・マクロウ氏
( Colleen McCullough )
作家。
1977年に発表された The Thorn Birds は全世界で翻訳され、三千万部のベストセラーとなった。
著書に “ The Masters Birds ” シリーズの Caesar 等がある。
訳者紹介
高瀬素子( たかせもとこ )氏
1960年生まれ。東京大学文学部英文科卒業。
おもな翻訳書にラッセル・ウォーレン・ハウ『 マタ・ハリ 』、マーガレット・マロン『 密造人の娘 』『 甘美な毒 』( 以上、早川書房 )、ステファン・レクトシャッフェン『 タイムシフティング 』( NHK 出版 )等がある。
発 行/2000年 4月25日 第1刷
発行所/日本放送出版協会
Japanese Edition Copyright
©️ 2000 Motoko Takese Printed in Japan