第 59 回目は古典文学( 児童書 )の御紹介です🍀
【 義経記 ( ぎけいき )】
古典文学全集 16
著 者/須知 徳平( すち とくへい )氏
「 黄瀬川( きせがわ )の陣 」 より 〈 安田 靫彦筆( やすだゆきひこひつ )〉
奥州平泉( おうしゅうひらいずみ )からはせつけてきた義経( よしつね )にとっては、笠のひもをとく間ももどかしかった。ついに平家を討ちほろぼすときがきたのだ。そしてまた、これから会う頼朝( よりとも )は、彼がはじめて会う肉親でもあった。
巻一 牛若の生いたち
牛若( うしわか )の鞍馬( くらま )入り
わが国で、昔から武勇のすぐれた人というと、蝦夷( えぞ )を征伐した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)とか、袴垂( はかまだれ )という盗賊をふるえあがらせた藤原保昌( ふじわらのやすまさ )とか、大江山の鬼退治をした源頼光( みなもとのらいこう )とか、そうゆう名前がすぐあげられます。だが、それらの人びとはどちらかというと伝説的な人物で、だれもその武勇のありさまを実際にこの目で見た人はおりません。
それにひきかえて、実際に私たちの目の前で数かずの武勇の名をあげ、世の中の人びとをあっとおどろかせた人がおります。源義朝( みなもとのよしとも )の末の息子であった、源九朗義経( げんくろうよしつね )がその人です。義経こそ、わが国でならぶ者がいない名将といっていいでしょう。
平治( へいじ )元年( 一一五九年 )十二月二十七日のこと、義経の父義朝は平家と戦ってさんざんに敗れ、おさない息子たちは京都に残して、長男の義平( よしひら )・次男の朝長( ともなが )・三男の頼朝( よりとも )の三人だけをつれて、東国( とうごく )のほうへ落ちのびて行きました。その後まもなく、義平は平家につかまって切られ、朝長は逃げのびる途中山賊の矢にあてられて死に、頼朝だけがひそかに伊豆の国( 静岡県東部 )の山奥にかくれました。
さて、京都に残されたおさない息子たちはどうなったのでしょうか。
常盤( ときわ )が生んだ義朝( よしとも )の子は三人おりました。今若( いまわか )が七歳・乙若( おとわか )が五歳・牛若( うしわか )はその年に生まれたばかりでした。
平清盛( たいらのきよもり )は、
「 この三人をつかまえて切れ 。」
と、家来たちに命令しました。
年がかわって、永暦( えいりゃく )元年( 一一六〇年 )正月七日の朝のこと、常盤( ときわ )は三人の子どもをつれて京都をのがれ、大和( やまと )の国( 奈良県 )の大東寺( たいとうじ )というところに身をかくしました。
常盤はそこで、たいへんなことを耳にしました。自分の年老いた母が、平家につかまってきびしく取り調べられているということです。
ーーーもし、母の命を助けようとして京都に行けば、三人の子どもたちはつかまって切られるかもしれない。だが、子どもたちを助けようとこのままかくれていたら、母はきっとひどいめにあわされるだろう。
常盤はいろいろ悩んだすえ、
ーーー親に孝行をつくす者の願いは、神さまもかならず受けいれてくださるということだ。きっと神さまは、子どもたちの命を守ってくださるだろう。
そう決心して、泣くなく京都へ出かけました。
平清盛( たいらのきよもり )は、三人の子どもつれてきた常盤の姿をみて、今までは〈 火にも焼きたい、水にもつけたい 〉と思うほど怒っていた心が、たちまちにやわらいでしまいました。なぜかというと、常盤はそのころ日本一といわれたほどの美人で、清盛はひと目みて好きになったのです。
「 もし、常盤が自分のいうことを聞いたら、三人の子どもの命は助けてやろう。」
清盛はこういいました。
常盤は子どもらの命を助けるために、いやいやながら清盛のいうとおりにしたがいました。そのおかげで、三人の子どもらは切られもせず、成長することができたのです。
今若( いまわか )は、観音寺というお寺にあずけられ、のちに《 禅師( ぜんじ )の君 》と呼ばれる坊さんになりました。
乙若( おとわか )もやはり、あるお寺にあずけられましたが、のちにそこをとびだして平家に戦いをしかけ、とうとう捕えられてしまいました。
牛若( うしわか )は、四歳になるまで常盤の手もとでそだちましたが、おさないころから、その心がまえやおこないが人一倍すぐれていたので、清盛はそのことを気にし、
「 こんな敵( かたき )の子といつまでもいっしょに生活していたら、将来どうされるかわからない。」
と、いうようになりました。
そこで常盤は、牛若を京都の東の山科( やましな )というところにあずけて、七歳までそだてさせました。
常盤は牛若がだんだん成長するにつれて、心配ごとがおおくなってきました。牛若のおこないがあまりに元気がよすぎ、そのうえ頭が非常にすぐれた子どもだったからです。
ーーーこのままにしておいたら、将来なにをしでかすようになるかわからない。やはり、今若や乙若とおなじようにお寺ににあずけて、いずれは坊さんにさせよう。そして、亡くなった父や兄のあとをとむらってくれるやさしい人になってもらおう。
常盤はこう思いました。
鞍馬山( くらまやま )の別当( 長官 )である東光坊( とうこうぼう )の阿闍梨( あじゃり )は、亡き夫義朝( よしとも )がよく知っている人でした。常盤はそこへ便りを送り、
「 あなたさまは、義朝の末の息子、牛若という者をご存じでしょうか。
平家が栄えている今の世の中で、源氏の子どもを持っていることは女の身としてたいへん心苦しいことでございます。そこでお願いがあります。牛若を、あなたさまの鞍馬のお寺におあずけしたいと思うのです。牛若は乱暴なくらい元気のある子どもです。どうかこの子どもに、やさしいおだやかな心がそなわりますように、あなたさまにそだててもらい、よく学問をさせて、お経の一字でもおぼえさせていただきとうございます。」
東光坊から返事がきました。
『 よくわかりました。源義朝どののご子息をおあずかりするとは、ことのほかうれしく思います。』
こうして、牛若は鞍馬山にはいることになりました。それは牛若が七歳になった年の二月のことでした。
その後牛若は、昼は一日じゅう東光坊にお経をならい、夜は仏前で夜の明けるまで、ひたすら学問にはげみました。
東光坊はこれほど学問にすぐれた少年は、比叡山( ひえいざん )の延暦寺( えんりゃくじ )や、大津の三井寺( みいでら )という有名なお寺にも、めったにおるまいと思いました。そのうえ牛若は、その心がまえや顔立ちも、ほかにくらべる者がいないりっぱな少年でした。
良智坊(りょうちぼう)とか覚日坊(かくにちぼう)とかいうえらい坊さんたちも感心して、
「 このままで二十歳ごろまでも学問をつづけたら、鞍馬の東光坊のあとをついで、世にならぶ者のいない高僧になるお方であろう。」
と、いいました。そのことを伝え聞いた母の常盤は、東光坊に便りをして、
『 牛若がひたすら学問にはげんでいるということを聞いて、ほんとうにうれしく思っております。でも、なにぶんにもまだおさない子どもですから、時には里が恋しくなることがあるかもしれません。それでは学問のさまたげにもなるでしょう。もし母の私に会いたいと思う気持ちがおきたら、使いをよこしてください。私のほうからそちらにまいります。おたがいに、姿を見たら気持ちも落ちつくでしょう。』
しかし東光坊は、
『 いちどお寺にはいった少年は、そうむやみに里へはださないことになっております。』
と返事をして、年にいちど、あるいは二年にいちどしか山をおりさせませんでした。
牛若は、これほどまでにひたすら学問にはげんだ少年だったのですが、どんな魔がさしたというのでしょうか。十五歳の秋のころから、学問する心がすっかりなくなってしまいました。
そのわけは、昔の源氏の家来がたずねてきて、牛若に平家へ謀反( むほん )をすることをすすめたからです。
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私は小学生の頃、源義経は武力が凄いと思っていたのですが、学問にも優れている方のようです。ですが、昔の源氏の家来が訪ねてきたことにより、武家の血が騒いでしまったみたいですね。
Sakuya ☯️
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著者略歴
須知 徳平( すち とくへい )氏
1921年岩手県に生まれ、国学院大学を卒業後、岩手県・北海道などの高校教論生活を経て上京、文筆生活にたずさわる。日本児童文芸家協会会員。
主な著書には「 春来る鬼 」( 第1回吉川英治賞受賞作 )「 ミルナの座敷 」「 アッカの斜塔 」「 人形はみていた 」等多数がある。
古典文学全集・16
発 行/昭和40年12月25日 第 1刷 ©️
/昭和54年 7月30日 第22刷
発行所/株式会社 ポプラ社