第 60 回目は仏教書の御紹介です🍀
【 阿 炎の行者 池口恵観自伝 字 】
衆生救護に生きる沙門
その波乱に満ちた軌跡
池口 恵観氏
第一章 生長
法者どん
私は昭和十一年十一月十五日、鹿児島県肝属( きもつき )群東串良( ひがしくしら )町の柏原( かしわばる )高野山西大寺に生まれた。兄三人、姉二人の六人兄弟の末っ子である。俗名は鮫島正純。父は真言宗の僧侶、弘明( こうめい )、母は智観( ちかん )といった。
鮫島家はもともと、室町時代から五百年以上続く修験( しゅげん )の行者の家系である。験者( ほうざ )から転じて法者、信者からは「 法者( ほしゃ )どん 」、「 山伏( やんばし )どん 」などと呼ばれていた。
幕末、薩摩藩のお家騒動、いわゆる「 お由羅騒動 」の際、後継者を巡って互いに争う両派は、相手方を調伏( ちょうぶく/呪い殺す )するため、全薩摩の修験者を動員、他藩各地からも行者が呼び集められて最盛時には合計千人近くに達したという。その調伏の模様は海音寺潮五郎の『 火の山 』に詳しい。幕末薩摩藩の青年群像を活写( かっしゃ )して名高いこの名作には、体制維持派とお由羅派と、それぞれの勢力に支えられた二人の主人公が登場する。その一方の主人公は、村人から「 山伏( やんばし )さあ 」と尊敬される修験者の上山源昌房。そのモデルになった修験者の子孫が私の弟子にいる。
独特の鎖国政策によって仏教の他宗派が入り込みにくかった薩摩では、土俗信仰と密教系の修験道が結びつき、修験宗のいわゆる「 山伏寺 」が発達した。主な流れは、京都醍醐寺三宝院に属する真言宗の当山派、聖護院に属する天台系の本山派、それに出羽( 山形 )の羽黒派である。私の家は当山派であった。
といって、私の家は父の代に至るまで寺を持たなかった。寺を持つと、檀家( だんか )の世話に時間とエネルギーを取られ、行者本来の営為たる行がおろそかになるからである。
行者の家として、私で十八代目になるが、一刻も途切れずに行を続けていたわけではない。明治の初め、祖父・伝之助の代のとき、全国で最も激しかったという鹿児島の廃仏毀釈( はいぶつきしゃく )運動の余波を受けて、祖父は宗教活動から身を退いた。同時に、薩摩の多くの修験の家は絶えた。すべては口伝なのでいつの頃からかはっきりしないが、曾祖父・賢彦( けんひこ )の前までは肝属城付きの祈禱師という側面も併せ持っていたらしい。
肝属城址は肝属郡高山町にある。石垣までが破壊しつくされ、今は碑を残すのみ。
かけ おちて いは の した なる くさむら の つち と なり けむ ほとけかなし も
これは、路傍に打ち棄てられ、風化し、やがては土と同化してしまったであろう古仏を詠んだ会津八一( 一八八一 ~ 一九五六 )の歌(『 南京新唱 』所収 )だが、賢彦をはじめとするわが先祖の足跡も、数々の伝承に彩られた業績( 後述する )も、今となってはこの歌同様に「 けむ 」という過去推量の世界の彼方にあって、記録として伝えられないのが残念である。
さて私は、薩摩、肝属、東串良と書き、鹿児島の前身=薩摩としたが、それは広義の表記であって、狭義で記すなら肝属は旧国名でいう大隈に属していた。
廃藩置県( 一八七一年 )前、西海道十一カ国の一つをなしていたとはいえ、大隈国はその大半を占める大隈半島の南部一帯が辺地で、長く陸の孤島と呼ばれてきた。現在でも、観光名所や史蹟の多い薩摩半島に比べて全国に知られるスポットははなはだ少なく、人工も希薄である。出身は大隈半島の・・・・・・、といっても、正確に理解してくれる人はまずいない。
そこで、平凡社『 世界大百科事典 』から「 大隈半島 」を引用するとーーー
大隈半島 肝属半島ともいう。鹿児島県の東半部を構成する半島。面積二、一〇〇㎢ 。鹿児島湾をへだてて薩摩半島と相対している。北部の高隅山地、中部の肝属平野、南部の肝属山地の3地域に区分され、ほかに1914年( 大正3 )の噴火によって陸続きとなった桜島がある。中央の平野部に鹿屋( かのや )市、高山串良( こうやまくしら )、志布志、大隈、大崎などの町が集中する。
著者略歴
池口 恵観氏
平成元年五月十四日百万枚護摩行成満 山口大学、広島大学、金沢大学、久留米大学の各医学部等十四大学の非常勤講師
近著に『 ひっ飛べのこころ 』( 扶桑社 )ほか著書多数
阿 炎の行者 池口恵観自伝 字
発 行/2004年10月15日 初版
発行所/株式会社 リヨン社