第10回目は神社の御紹介です。
【一生に一度は行きたい 日本の神社100選】🍀
編集長 /山崎恵美氏
編集・構成/株式会社クリエイティブ・スイート
監修者 /島田 裕巳氏
執 筆 /佐藤 賢二氏・清塚・あきこ氏
/真代屋 秀晃氏・石津 智章氏
伊勢神宮
外宮正宮
正式には豊受大神宮と云います。外宮では参道の左側を、内宮では右側を歩くのが習わしです。
内宮正宮
唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)という古代様式で建てられていて、正式には皇大神宮と云います。伊勢神宮では本殿のことを正宮と呼びます。
正式名称は『神宮』。天照大御神(あまてらすおおみかみ)様を祀る内宮(ないくう)/皇大神宮(こうたいじんぐう)と、豊受大御神(とようけのおおみかみ)様を祀る外宮(げくう)/豊受大神宮(とようけだいじんぐう)から成り、さらに県内の4市2郡にまたがって合計125の摂社や末社、所管社があり、これら全てを指しています。
内宮は神宮の中心です。その広さは伊勢市の約4分の1を占め、国内最大の神域となっています。鳥居をくぐって玉砂利の敷き詰められた道を15分程歩くと、正宮(しょうぐう)の前に出ます。通常、正殿(しょうでん)は四重の垣根で囲われているので、中を見ることはできません。
祭神/天照大神様は皇室の祖先です。日神(ひのかみ)とも称し、全ての秩序の根源とも云われます。内宮の創健は天皇の皇女/倭姫命(やまとひめのみこと)様が天照大御神様を伊勢に祀ったことが始まりだとされていて、『日本書記』によると、「是れ、神風の伊勢の国は、即ち常世の浪、重浪(しきなみ)の帰する国なり、傍国(かたくに/中心ではないが)の可怜し(うまし/美しい)国なり。この国に居らんと欲う(おもう)」との神託があったと云われています。
外宮が鎮座したのは、内宮の500年後です。雄略(ゆうりゃく)天皇の時代に、神にお供えする食物を司る豊受大御神様を丹波国(京都府北西部と兵庫県東部)から迎えました。こちらも神託によるもので、天皇の夢に天照大御神様が顕れて、それを望んだと云われています。外宮の御饌殿(みけでん)では、天照大御神様をはじめとする神宮の神々に神饌(しんせん)をお供えする祭事が、朝夕2回、行われています。
現在、いつも多くの人が参拝に訪れる伊勢神宮ですが、もともとは庶民に近い存在ではありませんでした。というのも、古来伊勢神宮には私幣禁断(しへいきんだん/天皇以外の供物の奉納を禁ずる)の制度があったからです。
しかし、個人の参拝までもが禁じられていたわけではありません。神宮の存在を民衆に広めたのは、祭儀の為に都から派遣されてきた、勅使の従者らだと考えられていて、彼らが戻って神宮の話をしたのだろうと思われます。更に、中世には伊勢信仰の伝道師『御師(おんし)』が登場します。その信仰が全国的なものになると、『伊勢講(いせこう)』と呼ばれる参詣集団も生まれました。戦国時代には一時衰退しましたが、近世に入ると伊勢講が再び活発になります。こうして『お伊勢参り』は庶民の夢の一つとなりました。尚、参拝にあたっては、外宮・内宮の順で行うのが古くからの習わしとなっています。
20年に一度行われる最大の祭事 式年遷宮
神宮では、20年に一度社殿や御装束(おんしょうぞく)等を新しくして、神を遷す(うつす)『式年遷宮(しきねんせんぐう)』が行われます。その発案は天武天皇だと伝えられていて、平成25年には62回目が終了しています。この1300年に渡る仕来り(しきたり)によって、神宮は日本国民の心の拠り所として生き続けているのかもしれません。
宇治橋
五十鈴川に架かる全長約100メートルの宇治橋。内宮への入り口であり、人と神を結ぶ架け橋と云われています。
古殿地(こでんち)
外宮正宮の背後にあり、前回の遷宮まで正宮が建っていた場所で、中央には『心の御柱』を納めた覆屋(おおいや)があります。
発 行/2018年8月12日
発行所/株式会社 宝島社