山の中で河童と遭遇/entry17

 第17回目は文学の御紹介です。


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【 河童 】🍀
 著 者/芥川 龍之介氏


 これはある精神病院の患者、ーー第二十三号が誰にでもしゃべる話である。彼はもう三十を越しているであろう。が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、ーーいや、そんなことはどうでも善い。彼はただじっと両膝をかかえ、時々窓の外へ目をやりながら、 鉄格子(てつごうし) をはめた窓の外には枯れ葉さえ見えない樫の木(かしのき)が一本、雪曇りの空に枝を張っていた院長の S 博士や僕を相手に長々とこの話をしゃべりつづけた。もっとも身ぶりはしなかった訳ではない。彼はたとえば 驚いた と言う時には急に顔をのけ反らせたりした。・・・
 僕はこういう彼の話をかなり正確に写したつもりである。もしまた誰か僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市外 × × 村の S 精神病院を尋ねてみるが善い。年よりも若い第二十三号はまず丁寧に頭を下げ、蒲団のない椅子を指さすであろう、それから憂鬱な微笑を浮べ、静かにこの話を繰り返すであろう。
最後に、
ーー僕はこの話を終わった時の彼の顔色を覚えている。彼は最後に身を起すが早いか、たちまち拳骨(げんこつ)をふりまわしながら 、誰にでもこう怒鳴りつけるであろう。ーー出ていけ! この悪党めが! 貴様も莫迦(ばか)な、嫉妬深い、猥褻(わいせつ)な、図々しい、うぬ惚れきった、残酷な、虫の善い動物なんだろう。出て行け! この悪党めが!


 三年前の夏のことです。僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地(かみこうち)の温泉宿から穂高山(ほたかやま)へ登ろうとしました。穂高山へ登るのには御承知の通り梓川(あずさがわ)を遡るほかはありません。僕は前に穂高山は勿論、槍ヶ岳(やりがたけ)にも登っていましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者をつれずに登って行きました。朝霧の下りた梓川の谷をーーしかしその霧はいつまでたっても晴れる景色は見えません。のみならず反って(かえって)深くなるのです。僕は一時間ばかり歩いた後、一度は上高地の温泉宿へ引き返すことにしようかと思いました。けれども上高地へ引き返すにしても、とにかく霧の晴れるのを待った上にしなければなりません。といって霧は一刻ごとにずんずん深くなるばかりなのです。
ええ、いっそ登ってしまえーー僕はこう考えましたから、梓川の谷を離れないように熊笹の中を分けて行(ゆ)きました。
 しかし僕の目を遮るものはやはり深い霧ばかりです。もっとも時々霧の中から太い毛生欅(ぶな)や樅(もみ)の枝が青あおと葉を垂らしたのも見えなかった訳ではありません。それからまた放牧の馬や牛も突然僕の前へ顔を出しました。けれどもそれらは見えたと思うと、たちまちまた濛々(もうもう)とした霧の中に隠れてしまうのです。そのうちに足もくたびれて来れば、腹もだんだん減り始める、ーーおまけに霧に濡れ透った登山服や毛布なども並み大抵の重さではありません。僕はとうとう我を折りましたから、岩にせかれている水の音を便りに梓川の谷へ下りることにしました。
 僕は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。コオンド・ビイフの缶を切ったり、枯れ枝を集めて火をつけたり、ーーそんなことをしているうちにかれこれ十分はたったでしょう。その間にどこまでも意地の悪い霧はいつかほのぼのと晴れかかりました。僕はパンを噛じりながら、ちょっと腕時計を覗いて見ました。時刻はもう一時二十分過ぎです。が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、円い腕時計の硝子の上へちらりと影を落としたことです。僕は驚いてふり返りました。すると、ーー僕が河童というものを見たのは実にこの時が始めてだったのです。僕の後ろにある岩の上には画(え)にある通りの河童が一匹、片手は白樺の幹を抱え、片手は目の上にかざしたなり、珍しそうに僕を見おろしていました。
 僕はあっけにとられたまま、しばらくは身動きもしずにいました。河童もやはり驚いたとみえ、目の上の手さえ動かしません。そのうちに僕は飛び立つが早いか、岩の上の河童へ躍りかかりました。同時にまた河童も逃げ出しました。いや、恐らくは逃げ出したのでしょう。実はひらりと身を反したと思うと、たちまちどこかへ消えてしまったのです。僕はいよいよ驚きながら、熊笹の中を見回しました。すると河童は逃げ腰をしたなり、二、三メエトル隔った向うに僕を振り返って見ているのです。それは不思議でも何でもありません。しかし僕に意外だったのは河童の体の色のことです。岩の上に僕を見ていた河童は一面に灰色を帯びていました。けれども今は体中すっかり緑色に変わっているのです。僕は畜生!とおお声を挙げ、もう一度河童へ飛びかかりました。河童が逃げ出したのは勿論です。それから僕は三十分ばかり、熊笹を突きぬけ、岩を飛び越え、遮二無二河童を追いつづけました。
 河童もまた足の早いことは決して猿などに劣りません。僕は夢中になって追いかける間に何度もその姿を見失なおうとしました。のみならず足を辷らして(すべらして)転がったことも度々です。が、大きい橡の木(とちのき)が一本、太ぶとと枝を張った下へ来ると、幸いにも放牧の牛が一匹、河童の往く先へ立ち塞がりました。しかもそれは角の太い、目を血走らせた牡牛なのです。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴を挙げながら、ひときわ高い熊笹の中へもんどりを打つように飛び込みました。僕は、ーー僕も しめた と思いましたから、いきなりそのあとへ追いすがりました。するとそこには僕の知らない穴でもあいていたのでしょう。僕は滑かな河童の背中にやっと指先がさわったと思うと、たちまち深い闇の中へまっ逆さまに転げ落ちました。が、我々人間の心はこういう危機一髪の際にも途方もないことを考えるものです。僕は あっ と思う拍子にあの上高地の温泉宿の側に 河童橋 という橋があるのを思い出しました。それから、ーーそれから先のことは覚えていません。僕はただ目の前に稲妻に似たものを感じたぎり、いつの間にか正気を失っていました。



次回へ続きます。


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「 河童図 」芥川 龍之介筆


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芥川 龍之介氏
大正13年 書斎にて




 発 行/1992年 9月25日 第 1刷
    /2008年 6月 7日 第14刷
 発行所/株式会社 集英社