ファンタジーとは何か/entry32

第32回目は心理学に関する書物の御紹介です。

 

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【 ファンタジーの発想 】

   ーー心で読む5つの物語ーー

 著 者/小原 信( おはら しん )氏

 ©️ Shin Ohara, Printed in japan, 1987

 

 われわれが心に感じることは無限にある。その人の内側の世界は、目に見える外側の世界よりはるかにひろくて深い。外側にあらわれたものは、内側にあるものの一部なのだ。そう気づいて現実の世界をみつめてみると、すべてのものが神秘と魔法に充ちみちていることがわかる。ただふだんはあわただしさにかまけて忘れているだけなのだ。

 たとえば緑の山なみは、遠くからみると青くも黒くもみえる。そのとき自分にはそう見え自分がそう感じたことは事実であるが、近くから見ると緑であることも正しい。科学的にはこうだとか統計上はそうなるということと、自分にはこう見えるということはいつも一致するわけではない。問題は自分が感じとり、みつけ、考えたことを、自分のことばで説明することであり、当然そこにはいくつかのバラエティが生じてくる。

 ふだんの何気ないあたりまえの世界には、よろこびとかなしみの織りなす複数のドラマが渦をなしてうごめいている。読み方次第で一つひとつのことは、いくらでもふくらみをもたせて読みとり聴きとることができる。

 蝉の抜け殻もガラスのビー玉もお菓子の空き箱も、子どもにとっては大切な宝物である。夢みる心のある人にはいまもそれに類したものがいくらでもあるであろう。しかし、大半の人はもうそんなことなど忘れて生きている。子どものころはそういうことも少しはわかる詩人であった。だが、大人になったいまも、目をつぶるだけでも、居間にいても人ごみのなかにいても、はるかな遠い記憶をよびよせることはできる。なつかしい音楽やすてきなドラマや物語などは、アルバムやテープや日記帳とともに、いつでもふしぎな世界への入口になる。

 現実の世界はファンタジーに充ちみちた世界である。ファンタジーの世界は書物のなかだけにあるのではない。いまのこの現実がファンタジーであり、多くの書物は、たまたまある人が心にうかべたことを書きとめてくれたものにすぎない。

 夢やあこがれはありもしないこと、絶対起きることのないことばかりだと、考えがちであるが、それは、見えないところで大きな感動や影響をおよぼしている。シンデレラの話をいまも心にとどめている人は、ガラスのくつやかぼちゃの馬車にあたるものを、いまも自分のあちこちに見出だしているはずである。ふだんや何気なく心に描いていること、じっさいに起きたことが、ぎりぎりのところで何とフィクションやファンタジーに充ちていることだろうか。

 考えてみれば、部屋のなかにいて時刻表で旅のことをいろいろ考えるのも、地図をひろげてあちこち行き先を思案するのも、こころのなかにはやばやとひろがるファンタジーの時間があり空間があるからであろう。映像をみているだけなのに、自分がそれに加わって応援したり興奮したりするのは、見ることながめることが、じっさいにそこに行くのと同じようなリアリティに近づいているからであろう。

 われわれがふつう現実とみなしているものはせいぜい目に見えるもの 事物・データ・身ぶり・文章・ことば のことであり、その人とかそのことの大切な部分はいつも見えないところにかくれている。その人がいまそこに見えていても、その人がいま感じたり考えたりしていることは、話すことも文章にすることもないままかくれていることが多い。一日の生活の大半は、自分がじっさいに考えたり感じたりすることを外にあらわさないまま過ぎていく。

 考えていても外に出さないことはいくらでもある。その人の心のなかの現実は、ことばとして表現されるよりもはるかに大きなひろがりと奥行きをもつ。だから内側は外側よりはるかにひろいのであり、そういうひろがりのある現実のすべてを、私はここで《 現実 》であると見ていきたい。

 そうしてふつうわれわれの感じとる幸、不幸はこのファンタジー次第で決まってくる。人はそれぞれ自分の心に思い描くプラスのファンタジーによって生きがいや高まりを感じるのであり、マイナスのファンタジーせいでしらけたり落ちこんだりする。それらはすべてその人がひそかに自分の心のなかでこだわるファンタジーのせいなのだ。「 こうなるのが幸いだ と思う人は、しばしば「 そうならなければ不幸だ と思いがちである。

 われわれの心のなかのよろこびやかなしみとは決してそのこと自体ではなく、そのことについての意味づけなのである。自分がいまかつてのあのこと、このことを心にどう留めてどのように意味づけていくかというのは、過去の出来事についての、いまの自分の解釈次第で決まってくる。人は過去の出来事や自分の覚えている事柄をいつも心のなかで解釈しなおしている。考えるとか生きるというのは、自分がすでにもっている先入観をもう一度見直すことによって解釈しなおすことである。それはまた自分のこれまでの歩み 自分史 を書きかえていく試みのことでもある。

 そのことについての意味が新しくなると、同じものが新しいものになる。同じものを新鮮な目で受けとりなおすことができる。そうできる人は、ありふれた日常のなかに神秘と奇蹟をみることのできるファンタジーの人なのだ。

 ファンタジーはただのお話ではない。またただ現実ばなれのした世界を描いたものでもない。むしろわれわれがふだん何気なく心に描いていることで、起こりうるかもしれないこと、起こってほしいと思っていること、また、じっさい自分に起きたことなどを、いささかフィクションじたてにしてドラマ化したようなものである。

 ファンタジーと言えば、ピーター・パン や アリス を思いうかべる人が多いだろう。自分の心のなかに、シンデレラ・ヘンゼルとグレーテル・白雪姫・グリとグラ・ちびくろさんぼ メアリー・ポピンズ・青い鳥・クリスマス・キャロル が入りこみ、ハイジ や ムーミン や 赤毛のアン 赤頭巾ちゃん や ジャックと豆の木 などがぐるぐるまわりはじめてお菓子やろうそくやマッチやケーキや鏡などが、いつのまにかあやしげな光りをおびてくると感じる人は多いだろう。そういうとき、賢治風 にいうと、「 氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の光をのむことができます 」ーー そんな心をもつ人は多いはずである。

 

 

 

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 私は、ディズニーのバンビという物語を幼少の頃読んだのですが、この物語はずっと私の心の中にあります。今でもこの絵本は手元にあって大好きです。この物語が私の心の中から追い出されてしまう様な言葉を聞いたり事柄が起きると、私は悲しくなって心が凍り付いてしまいそうになります。好き嫌いもあるでしょうし、私は大人だと解ってはいますが、この物語が私の心の中から消えてしまうことはありません。

  Sakuya☯️

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小原 信氏

一九三六年神戸市に生まれる。

國際基督教大学教養学部東京大学大学院を経て、一九六ニ年~一九六六年 Yale大学大学院留学。一九六六年 PH.D( 哲学博士号 )取得。一九七〇年和辻哲郎賞受賞。青山学院大学文学部教授。倫理学現代思想を専攻。著書に、《 状況倫理の可能性 》《 孤独と連帯 》《 時間意識の構造 》《 出会いの人間学等がある。

     ーーー 株式会社 新潮社 ーーー

 

 

ファンタジーの発想

 発 行/昭和六十ニ年三月十五日 印刷

    /昭和六十ニ年三月二十日 発行

 発行所/株式会社 新潮社