第44回目は仏教に関する書物の御紹介です🍀
【 美の観音 】
著 者/望月 信成氏
夢違観音( ゆめたがいかんのん )像 法隆寺蔵
一 観音は女性か
私が大学二年生の時に、初めて論文らしい短篇を書いて、或る美術館誌に投稿したことがあった。その動機がふるっていた。というのは当時関西から出版され、まもなく廃刊になったけれども、気のきいた文化雑誌に或る学者が「 観音菩薩は女性である 」と論じているのを見て、奮然と「 観音は断じて女性ではない 」といきまいたのである。今から思うと、いわゆる若気の至りで、大人気のない論旨であったのだが、当時は仏教美術を専攻しようと意気込んでいた矢先であるので、相手には不足はなし、よき敵ござんなれと、第一の矢をはなつつもりで書いたように記憶している。
とにかく観音菩薩は仏教の諸尊( しょそん /1 )のうちで一番女性的に表現されているのは事実である。いや女性的という言葉は多少言い過ぎであるかも知れないが、優しく慈悲に満ちた母親のような感じに表わされていることは何ぴとも否定しないところである。そのために悲母観音とか慈母菩薩とかと呼んでおり、母親、ひいては女性を思い起こさせるようなふしがたくさんあるから、一般の人人は何の疑いもなく、観音は女性であると信ずるようになったものと思う。私の最も畏敬する先輩ですら、或る美術雑誌に「 大狂がいうように観音が男性であるとすれば・・・・・ 」などと極言( きょくげん /2 )しているぐらいであるから、素人が女性であると思いこむのはむしろ無理ではない。
のみならず近頃の美術展覧会では《 観音像 》と題して、お乳のふくらんだ、お尻の大きい、本当の女性に表わした彫刻などに、しばしば出あうことがある。試みに、これらの作家に聞いて見ると、「 観音は女性ですよ 」とすまして答えるのが普通である。数年前のことであったが、ある展覧会で、このような表現のある観音像を見たので、私はその作家をつかまえて
「 観音菩薩は男性ですよ 」
と大きな乳房を指しながら言ったら、
「 じょうだんでしょう、悲母観音と呼んで、この子供の母親なのですよ 」
と観音像の前に合掌して立つあどけない童子の像を示しながら答えた。
仏教の諸尊の中で本当の女性に作るのは比較的に少ない。例えば吉祥天女( きっしょうてんにょ /3 )、弁財天女( べんざいてんにょ /4 )、迦梨帝母( かりていも,鬼子母神 /5 )などが頭に浮かぶが、これらの女性は、西洋のマリアとかヴィナスとかのように女性美や母性愛を表わそうとしたものではなく、一種の仏であるから堅さがあり、マリアなどの女性にくらべて、なにかものたりないものがある。それで明治の初年に西洋芸術がわが国に紹介され、当時の若い作家たちは慈愛に満ちたマリア像や美のヴィナスのような仏像を作ろうと、いろいろ工夫し、もとめてみたが、なかなかよいものができなかった。当時の新進( しんしん /6 )作家竹内久一は伎芸天( ぎげいてん /7 )像を創作して和製のヴィナスとしたが、やはり喰いたりないところがあった( この伎芸天像は現在東京芸術大学に秘蔵されている )。
マリアやヴィナスのような《 愛と美 》の権化は、古今を問わず東西のいずれでも、人間は必ずあこがれ、求めてやまないものである。特に荒涼とした人生の長い旅にいつでもいだく心の糧( かて )、魂の郷愁( きょうしゅう /8 )は、この《 愛と美 》である。その弱い人間がもしも《 愛と美 》の理想をつかむことができたら、その喜びはどのくらいであろうか。ここに西洋では過去二千年の間《 マリア 》をおがみ《 ヴィナス 》をあこがれたのである。そして、この両者が共に女性であることによって一そう大衆と深く結びついたものと私は思う。
1.諸尊( しょそん )/《 仏 》 如来・菩薩・明王・天など仏教上尊崇すべき存在の総称。
2.極言( きょくげん )/極端な言い方をすること。遠慮せずに言うこと。また、その言葉。
3.吉祥天女( きっしょうてんにょ )/仏教の守護神である天部の1つ。もとヒンドゥー教の女神であるラクシュミーが仏教に取り入れられたもの。功徳天、宝蔵天女ともいう。 ~Wikipediaより~
4.弁財天女( べんざいてんにょ )/仏教の守護神である天部の1つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名である。神仏習合によって神道にも取り込まれ、様々な日本的変容を遂げた。 ~Wikipedia より~
5.迦梨帝母(かりていも、鬼子母神)/仏教を守護するとされる夜叉で女神ヤクシニーの一尊。迦梨帝母とは梵名ハーリティーを音写した呼び名。 ~Wikipediaより~
6.新進( しんしん )/その分野に新しく現れて、活躍していること。また、その人。 ~コトバンクより~
7.伎芸天( ぎげいてん )/仏教守護の天部の1つ。摩醯首羅天( まけいしゅらてん,大自在天=シヴァ神 )の髪の生え際から誕生した天女とされる。容姿端麗で器楽の技芸が群を抜いていたため、技芸修達、福徳円満の護法善神とされる。 ~Wikipedia より~
8.郷愁( きょうしゅう )/故郷をなつかしく思う心。また、過去や昔のものにひかれる気持ち。ノスタルジア。 ~辞書より~
次回に続きます。
著者略歴
望月 信成氏
明治三十二年六月生。
大正十五年東大文学部美学及美術史科卒。京都博物館鑑査員を経て大阪私立美術館長兼大阪私立大学教授。
主な著書『 日本上代の彫刻 』『 絵巻物の鑑賞 』『 支那絵画史 』『 仏画仏像の話 』等。
美の観音
発 行/昭和卅( さんじゅう )五年七月十五日
©️ 10th july 1960,Printed in Japan
発行所/創元社