御仏の光/entry68

第 68 回目は仏教書の御紹介です🍀

 

 

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阿 炎の行者 池口恵観自伝 

  衆生救護に生きる沙門

    その波乱に満ちた軌跡

 著 者/高野山真言宗傅燈大阿闍梨

     池口 恵観氏

 

 

 祇園精舎ホスピス

 

 仏教と医療はもともと隣り合わせの関係にあると言えよう。その一つの証拠が 祇園精舎である。 平家物語の最初に出てくる 祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり という有名な一節があるが、その深い意味を理解している人は意外に少ないのではないか。

 祇園精舎 岩波仏教辞典で引いてみると、 古代インドのコーサラ国の都シラーヴァスティー( 舎衛城 )にあった精舎( 註・出家修行者の住む寺院 )の名。シラーヴァスティーのスダッタ( 須達 )長者が私財を投じて、ジェータ( 祇陀 )太子の園林を買い取って、釈尊とその教国のために建てた僧房の名である。・・・・釈尊によって多くの説法がこの地でなされた。もとは七層の建物であったといわれる とある。

 祇園精舎は、お釈迦さまを支援するお金持ちが私財を投じて建てた修行者たちのための僧房であった。では、どうして祇園精舎の鐘の音は諸行無常の響きがするのか。祇園精舎は、お釈迦さまとその弟子たちが修行し、お釈迦さまが弟子や信者さんたちに法を説く場であった。だが、全国から集まってきた人たちの中には病気で苦しんでいる人もいる。その人たちの治療や介護をする役割も同時に担っていたのである。

 死を目前にした重病人たちを集めた、ホスピスのような病棟もあったと考えられる。祇園精舎に入ってきたその重病人たちは、お釈迦さまや弟子たちが唱えるお経に癒されながら、時にはお釈迦さまの説法を聞きながら医師の治療や介護を受けていたのである。

 そこでは、幸いなことに病気が治った人もいたであろうし、治療の甲斐なく死んでいく人もいた。祇園精舎では、人が亡くなると、鐘が打ち鳴らされ、供養のお経が唱えられたのである。この鐘の音を聞き、お坊さんたちの唱えるお経の声を聞きながら、祇園精舎に住んでいる人たちは死んでいった人の冥福を祈って手を合わせたのである。

 諸行無常とは、 あらゆる現象の変化してやむことがないということ、人間存在を含め、作られたものはすべて、瞬時たりとも同一のままではありえないこと 岩波仏教辞典 である。盛者( しょうじゃ )必衰、万物流転。人間は、肉体は滅んでも魂はこの世に残る。つまり、祇園精舎の鐘の音は、万物流転の響きをもって死者を弔( とむら )い、生者を癒していたから諸行無常諸行無常と聞こえたのである。

 いずれにしても、お釈迦さまのために建てられた祇園精舎は、仏教の道場であると同時に、古代インドのホスピスでもあり、仏教と医療が同居していたのである。つまり、仏教の祈りと癒しは、医療の祈りと癒しと同根ということである。

 昔から、 医は仁術 と言われているが、医療には宗教的な祈りと癒しが必要であるという考え方がその背景にはあったのである。

 しかし、明治維新以降、西洋の科学技術、物質文明が津波のように押し寄せてきたのにつれて、医療から仁術的な要素が薄れていった。それとともに、仏教からは衆生を救済する祈りと癒しの要素も薄れていき、葬式仏教と批判されるようになってしまったのである。そして、かつて私自身が体験したように 法衣を着て病院にきてもらえば病人が死んだように思われるから、一般の服できてください と言われるようになって、医療と仏教は無縁のもののようになってしまったのである。

 私は小学生の頃から、子供心に、仏教と医療はつながっていると思っていた。私は真言密教のお加持でたくさんの重い病気の人を治してきているが、私にそのような力があることに気づいたのは、小学校低学年の頃であった。

 父に連れられて信者さんの家々を回っていると門を入る前に、その家の牛がその日に出産することや、その家の人が病気になっていることなどが手にとるようにわかった。

母のお腹の中にいるときから、行三昧の雰囲気に包まれ、物心ついた頃から行をやっていたから、いわゆる念力が強かっのだと思う。

 ある日、友だちが泊まりがけで遊びに来た。昼間は寺の境内などで心ゆくまで遊んで、夜寝ていると、友だちが 痒い、痛い と言って泣き出した。見ると、腹一面にトビヒができていた。私は気の毒になって、患部に手を置いて一生懸命に真言を唱えた。すると、友だちは楽になった様子で、いつの間にか二人とも眠ってしまっていた。翌朝、トビヒはすっかり治っていたのであった。

 私はその時、子供心に 行を一生懸命やっておれば病気の人も助けてあげられるようになるのだ。絶対日本一の行者になって、病気で苦しんでおられるたくさんの人を助けてあげるのだ 誓願した。これはやはり、室町時代から五百年以上にわたって、行者として衆生救済に努めてきた家系のなせる業であろう。もっとはっきり言えば、行は極めることによって病気の人も救うことができると、小さい頃から直感していたのである。

 弘法大師空海、お大師さまは 即身成仏 を説かれた。これは、私たちは人間はこの身このままで仏になることができる、ということである。なぜ即身成仏ができるのかと言うと、私たちは大日如来という大宇宙大生命体から生み出された仏の子であって、御仏の光を持っているからである。

 生まれながらにして御仏であるのは、何も人間に限ったことではない。密教では、人間も動植物も、山や川さえも生きとし生けるものすべてが大宇宙大生命体である大日如来の子であって、 山川草木悉皆( しっかい )成仏 、すべてが仏になれると説いているのである。

 しかし、現実の世界は御仏の世界ではない。愛があれば、憎しみがある。楽があれば、苦がある。現実はまさに四苦八苦の世界なのである。御仏の子である人間の社会が、なぜ御仏の光に照らされずに、汚れ濁っているのかと言うと、人々がこの世の中の煩悩にさいなまれて、本来の御仏の光を輝かせることができないからである。

 色々な煩悩にさいなまれた結果、本来の御仏の光を失って病気になっていく人もいる。そのような時は、御仏の光が出るようにすれば、病気が治る。私たち行者は、その光を出すお手伝いをするのである。お手伝いをするからには、私たち自身がふだんから真剣な行をして、御仏の光が自( おのずか )ら出せるように、心を磨いていなくてはならない。

 

 

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 私はまだまだ煩悩にさいなまれていますが、少しでも御仏の光が出ていると良いのですが。

  Sakuya ☯️

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著者紹介

池口 恵観氏

昭和十一年十一月十五日鹿児島県肝属郡東串良町に生まれる

高野山大学 文学部密教学科卒業 高野山真言傅燈大阿闍梨

鹿児島市最福寺法王  医学博士山口大学

平成元年五月十四日百万枚護摩行成満

山口大学広島大学、金沢大学、久留米大学の各医学部等十四大学の非常勤講師

近著に ひっ飛べのこころ ( 扶桑社 )ほか著書多数

 

 

発 行/2004年10月15日 初版

   /2004年12月 1日 2版

発行所/株式会社 リヨン社