気紛れなおとらさん/entry71

第70回目は日本文学の御紹介です。

 

 

f:id:sakuyamonju:20191117200942j:plain

 

日本文学全集8

       徳田 秋声集

 著 者/徳田 秋声氏

 

 

あらくれ

 

 《 おとらさんは何処へ entry66 》の続き

 

 お島は養父が、二三軒の知合いの家へ葉書を出したことを知っていたが、おとらが帰ってから、やっと届いたおとらの生家( さと )のほかは、その返辞はどこからも来なかった。

 養父はどうかすると、蚕室にいるお島の傍へ来て、もうひきる1ばかりになっている蚕を眺めなどしていた。蚕のある物はその蒼白い透き徹るような軀( からだ )を硬張( こわばら )せて、細い糸を吐きかけていた。

お前阿母( おっかあ )から口止めされてることがあるだろうが

 養父はこの時に限らず、おとらのいないところで、どうかするとお島に訊ねた。

どうしてです。いいえ お島は顔を赧( あか )らめた。

 しかし養父はそれ以上深入りしようとはしなかった。お島にはおとらに対する養父の弱点が見えすいているようであった。

 もう遊びあいて、家が気にかかりだしたというふうで、おとらの帰ってきたのは、その日の暮近くであった。養父はまだ帳場の方を離れずにいたが、おとらは亭主にも辞( ことば )をかけず、 はいただ今 と、お島に声をかけて、茶の間へ来て足を投げだすと、せいせいするような目色( めつき )をして、庭先を眺めていた。濃い緑の草や木の色が、まだ油絵具のように生々してみえた。

 お島は脱ぎすてた晴衣( はれぎぬ /2や、汗ばんだ襦袢( じゅばん )などを、風通しのいい座敷の方で、衣紋竹( えもんだけ /3にかけたり、茶をいれたりした。

こんな時に顔を出しておきましょうと思って、方々歩きまわってきたよ おとらは行水をつかいながら、背( せなか )を流しているお島に話しかけた。その行った先には、種違いのおとらの妹の片づき先や、子供のおりの田舎の友だちの縁づいている家などがあった。それらは皆な東京のごちゃごちゃした下町の方であった。そして誰もいい暮しをしている者はないらしかった。そして一日二日もいると、じきに厭気がさしてきた。おとら夫婦は、金ができるにつれて、それらの人たちとの間にだんだん隔てができて、往き来も絶えがちになっていた。生家ともやっぱりそうであった。

 湯から上がってくると、おとらは東京からこてこて持ってきた海苔や塩煎餅のようなものを、明かりの下で亭主に見せなどしていたが、飯がすむと蚊のうるさい茶の間を離れて、じき蚊帳の中へ入ってしまった。

 毎夜毎夜寝苦しいお島は、白い地面の瘟気( いきれ /4の夜露に吸いとられるころまで、外へ持ちだした縁台に涼んでいたが、近所の娘たちや若いものも、時々そこに落ちあった。町の若い男女の噂が賑わったり、悪ふざけで女を怒らせたりした。

 仕舞湯( しまいゆ/ 5をつかった作が、浴衣を( ゆかた )を引っかけて出てくると、うそうそ傍へ寄ってきた。

このばかまた出てきた お島は腹立たしげについとそこを離れた。

 

 

🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿

 おとらさんは気紛れですが、怒ったあとぐちをいうタイプではなさそうですね。

  Sakuya ☯️

   🌿🌿🌿🌿🌿🌿

 

 

1.ひきる/蚕が繭をかける状態になる。

 

2.晴衣( はれぎぬ )/表だった席に出るときに着る衣服。晴れ着。

 

3.衣紋竹( えもんだけ )/竹製の衣紋6掛け。

 

4.瘟気( いきれ )/蒸されるような熱気。むし熱さ。

 

5.仕舞湯( しまいゆ )/皆が入浴し終わって、最後に入る風呂のこと。

 

6.衣紋/装束をきちんと着けること。また、その方式。着物のえりを胸で合わせたところ。

 

 

 

 

日本文学全集8 徳田秋声

著 者/徳田 秋声氏

発 行/昭和四二年十一月十二日

発行所/株式会社 集英社

©️ 1967